昭和43年8月16日 祈願祭



夏の祈願祭親先生御祭主の元にこのような形で皆さん共々におかげを頂きました。何と申しましてもやはりこの夏の祈願祭が祈願祭と名打ってこのいちばん力がいります。
かと言うと、」又ひとつ力をぬきます。とこんなだらしのないいやなおまつりはございません。ネ、ま、寒くて眠くて早う説教済んだことだと。それではやはり今日の祈願祭が劣ることになります。でもひとつ今日の祈願祭を祈願祭たらしめるためにもひとつ本気でエー信心を解らしてもらい皆さんがそして願われたことがいよいよ成就になって参りますようなおかげを頂いて頂だかなければならんと思う、エー明日のお祭りをおつかえ   先生方いっぽう私もマアーおかげを頂いた訳でございますけれども大払いがそう業されます時にどの先生方の表情をみても一生懸命大払い     。私、あの姿を見た時にですね、大払いがこんな   位、感激致しました。ネ、もう一生懸命大払い上げておられる。私思いますのにネ、お願いをするとかお詫びをるすとか、お礼を申し上げるとかこう申しますけれどもそれがやはり神様に通わなければ何にもならん。も、お詫びばっかりしよりますと言うても、そ、お詫びが通わなかったらおかげになっていきません。もちろん、お願いは尚 のこと。ネ、お願いしよいります。お願いしとりますと言うだけではいけん。そのお願いが本当にきき届けられるおわびがネお許しを頂ける。ネ御礼を申し上げその御礼の心が神様に通う。ネ、そこからです。私がおかげを頂かしてもらう道が開けてくるとこう思うんです。お礼を言うとります。おわびはしとります。ネ、お願いもしておりますけれどもその一生懸命が問題です。ネ、一生懸命に私どもが御祈念信心のけいこをさせて頂くというところから神様に うのでございますからネどうぞひとつ一生懸命になりますとその暑いのが暑さを感じません。寒さを感じません。ネ、まだ暑いを感じる、寒いを感じる時にはネ、まだ自分が一生懸命が足りない時だと思わねばいけません。ネ、その位な一生懸命がですね、とりわけこの祈願祭にはそういう信心が成就いたして参りますようなおかげを頂きたいと思います。ネ、同時に只今、親先生のお説教の中にございましたようにネ、エー私共がやはり人形神様がたとえば人形使いでおありになるならば、私共がこの人形にならなければならないというようなお話しをなさっておられましたよね。手を上げろと言ったって上げんぞと言うわけ、足を上げろと言っても手ども上げとると言うような事ではおかげにならんわけです。ネ、そこにいかに御教えに忠実にならなければならないかんということ。ネ、日々、御教えを頂かしてもろうてその御教えに本気で忠実にあるということがです。神様の言うならばおまかせしきったことなんです。神様のおっしゃるとおりに動いとるというのですから。ネ、そこのところが私共には欠けておる。右向けと言うても左を向いておるというような事ではネ、おかげになりません。ネ、エー私共がこのお願いをさしてもらう、それは氏子身の上のこと、何なりとも実意を持って願え。それは牛から馬のことでもネ、様々な身の上のこと、何なりとも願うとおっしゃるのでございますからお願いをして良いのでございますけれども、そのお願いがネ、そのお願いが神様に本当に通うだけではなくて通うて返ってくるおかげにならなければいけません。ネ、神様はそりゃボソボソと言うてもきこえる。大きな声せんでもいいとおっしゃるから。一生懸命にならんでも耳許だけでも神様ちゃんと解ってござるけれども、こっちはこっちはもうおかげはおかげになって通ってこなければ何にもならんでしょう。ネ、だからその通ってくることのためにです、おかげがこちらに通ってくることのためにです、ネ、私共が本気にならなければいけません。たとえば、様々な願いを皆が持っておりますけど、そのお願いというものがです、私は今朝からの朝の御理解に皆さんにきいて頂いたんですけれどもネ、天地の親神様の願いというものは、お願いというのは、私共だけではないのですよ。ネ、みんな私共だけがお願いするとごと思うとる。昔はそうじゃった。私共は、神様お願いすることが信心かのように思うとった。神様の言うこときくことなんかは本当にそれはアーもういっちょん守らんやった。只、お願いするだけであった。そのたびにおかげは下さったけれども、それでは本当のおかげになかなかった。これは、私のことでもネ、私共の願いというのは私共の願いだけではなくて神様の願いがある。しかもそれは氏子一人一人の上に願いがある。そういう願いが地上になって、このように実現してゆく。神様の願いが地上に成就してゆくというようなおかげでならなければならないということ。ネ、これは私の場合ですけれども、もう本当においたものとるようなおかげを頂きました。親先生のお取りつぎ頂いて。ところが、ネ、だんだん願っても願ってもおかげにならん。右と願っても左、左と願っても右というような状態であった。ネ、そこで私は解らして頂いたのが今のことであった。こりゃ神様が私にかけられる願いがあるということであった。大坪総一郎にかけられる願いがあるということなんです。ネ、そこで商売が繁盛致しますようにとか、こういう事情でございますからというような事ではんくてです。私位の者にでも神様の願いがあることが解ったからその願いが成就致しますようにというための信心が修行がだんだんなされるようになってきた。これは不思議です。本気で信心さしてもらおう、本気で本当のことが解ろうということになりますとネ、神様は本当に修行さして下さいます。もう一切の問題をもって本当に稽古さして下さいます。そして、これで私が言えることはですネ、私共の周辺におきてくる全ての事柄、問題、一切私共が今まで難儀思っておった難儀その全てが全部神様が信心の稽古をさして下さる材料であるんですヨ。まして私共が本気で信心の稽古をさして頂こうという気になるとです。神様がとってつけたような修行をさして下さいます。ネ、神様が生きてござる証拠です。ネ、思いますと右と願っても左、左と願ってももう右というようなそういう間にです。神様の願いはもうひとつひとつ成就にいっておった。それは、凡夫である私には解らなかった。今からすれば、思うとです。あー、今、神様の願いが成就であった。こういうことも、神様の願いのかのうていく印であった。ネ、ですからネ、私共はネ、日に日に信心の稽古をさして頂いていくのが全部それがおかげの元になるためのものなん。それが、私共はお願いをしてこれをとり除いて下さいというような信心であったということです。自分だけの中心、私中心の信心であった。ネ、神様中心の信心。言うならば神の願いが私の上にネ、それが見事に成就していきますようなおかげを頂くために、親先生がおっしゃられましたようなネ、本気で素直にネ、バカ程に神様が右向けとおっしゃりゃ「はい」左を向けとおっしゃりゃ「はい」そん時、人から笑われることがあるかもしれん。悪口を言われることがあるかもしれん。けれども神様のおおせにはそむかれません。という生き方なん。手を上げるとおっしゃれば上げ、足を上げろと言われれば足を上げていくのだ。そして、問題がいよいよこんがらがっていくようにあるけれども、そこからですね、本当のおかげの道が開けてくるということをです。これは、私の信心の体験からこれだけははっきり申し上げることが出来る。ですから、そういうおかげをですね、私は頂くために   の焦点がそこに通わなくてはいけない。それは痛ければ痛い。かゆければかゆいで、やっぱり難儀ですから願いも致しますけれどもこれが私が真実、おかげを頂くための信心の稽古の材料であるとするならば、これを早く治して下さいなどとは申しませんというものが、心の底        いかんと私は思う。苦しいから願いはすれけれども、ネ、この苦しいことがです、神の願いが成就していっておる。それが  るであるならばです。それは、いといませんという修行がなさらなけらばいけないと私は思う。ネ、私は今日の祈願祭がです、そういう願いにネ、そういう願いに に全部揃えなけれないけない。皆さんがまぁ言うならば、がむしゃらに今まで願うても願うても成就しなかったことを一生懸命願われたかもしれない。けれどもその願いがです、健康にならして下さいも良かろう。金持ちにならして下さいもよかろう。人間関係の様々な難儀な問題もどうぞ、おかげを頂きますようにも良かろうけどもネ、その願いが私だけがおかげを頂くためのものではなくて、その願いが神様の願いが成就することのためにつながるというのである。ネ、  君にならして下さいも良かろう、それでも    にならせて頂いた事によって、又、おかげを落とすような事になってはならない。そんなキワ になってはならない。その言わば億万が億万の金がです、神様に喜んで頂けるような事に行じされるような事のためにネ、金文言           いけん。
様々な問題が成就していくことも、事に   未来は願っているけれどもそういうところにです。一つの線が出てこなければいけない。私共の願いがこの位のこと   先生がおっしゃっておられたということです。人間の人の道とは、これ位けど    というたらどれ位あるやら解らんとおっしゃる。私共が小さい願いを立てるよりもです、私にかけられるところの神様の願いが成就することの方が、どれ位ありがたいやら解らん。そういうおかげをもらわなけりゃならない。皆さんが願っているその願いもそこんところに位置付けがなされなければならないということでございます。暑いのにもう辛抱して一生懸命お祭りが行われました。そして、又、お説教頂かれました。それが私共一生懸命願ったその願いのネ、言わば、その筋というものが果たして只、自分よがりの願いじゃなかったろうか。神様が喜んで頂ける願いにつながっていただろうか、ということを正しく修正して願いをし  ならん。しかもそれがどんなにすばらしい筋であってもネ、一生懸命かよたらこれは神様には通じない。イヤ、通じてもこっちに通ってこないとそんな意味で私はですね、背中に汗を、暑いような汗をかいでる。足はいよいよしびれてくる。そういう事も 。神様一心それこそ後ろから槍でつかれても振り向かんですむような一生懸命の   をネ、ささげさして頂きたい。この4日間エー4日です、4日ですね。終わりました50日の信行期間、夏の信行期間をこの教会から初めての試みでございました。1時のいちばん暑い盛りにというのでエー若先生を先頭に修行生の方たちが中心になってここお広前いっぱい集まりました。まちーっと1時に集まりました。そして、それこそもうこのマイクをにぎって         こうやってやっておる。          。合楽にいちばん欠けておったのが、それが     であった。拝むということが欠けておった。ただお話しを頂くばっかりが合楽の信心だと思うておった。それが今度ですね、そういう意味での祈願力がこう鍛えられてることの楽しみが皆に出来てきた。ネ、おかげを頂いてから、信行期間はも日を追うに従ってだんだんおかげを頂いて終わりましたけれども今もやっぱりその1時の御祈念が続けられております。それこそもう畳がもう座ってるところが型が付くような汗が出るもうまあ一生懸命のいわゆるモットーを捧げさしていただいたのです。ネ、そういう一生懸命の     でありましてもです。ネ、筋から違うておったらいけないという。     すばらしい  筋が違うておったら

みきこ